2024 |
12,06 |
(この男っ…磨羯宮の崩壊も厭わないというのか…!)
絶え間なく放たれる聖剣は磨羯宮の裏側一帯を次々と破壊していく。崖も石畳も磨羯宮の柱までも斬り込まれ、崩れる岩の粉塵が視界を遮っても勢いは衰えなかった。時折かすめる手刀の鋭い風が紫龍の体に細かい切り傷を増やしていく。僅かでも避けきれなければ一瞬にして手足は斬り離されてしまうだろう。
「シュ、シュラよ!お前も地上の平和のため黄金聖闘士になったのだろう⁈なぜ悪の教皇に加担する⁈本当に真実を知っていながら闘っているのか⁈」
―うるさい…交渉しようとする、そういうところが雑魚なのだ―
「真の聖闘士であるならば無駄口など叩かずさっさと俺を倒してみせろ!デスマスクにしたように敵意を剥き出せ!」
「ぅわっ!」
紫龍の影に向けて一際鋭い一撃を斬り付けた。どこかに叩き付けられる音を聞いてやっとシュラは動きを止める。煩わしくなったマントを引き抜き、辺りの粉塵が風に流されるのを待った。
「…さすが、アテナの加護といったところか」
うっすらと姿を確認した紫龍の体は繋がっていた。代わりに装着していた聖衣は斬り落とされて瓦礫と混ざっている。
「だがそれもここまで」
シュラは紫龍の目覚めを待たず、その首を目掛けて手刀を振り下ろした。が――
「……っ⁈」
「……ハハ…これが真剣白刃取り、だっ…!」
たかが青銅の小僧にシュラの右手はしっかりと受け止められていた。油断したシュラはそのまま腹部を蹴り上げられ、紫龍は離れた瓦礫の上に降り立った。
「デスマスクを倒した事は間違いと思わない!だから詫びぬ!そして俺は必ずお前も倒し、真の正義を取り戻してやる!」
「クク…自らの実力も知らずにでかい口を叩く奴だ」
―あいつのそんなハッタリも、もう聞けないというのか…―
「…俺はな…そういう奴が嫌いなのだ!」
シュラと紫龍のコスモの差は歴然だった。こんな青銅になぜデスマスクは倒されてしまったのか不思議な程に。ただ避けるのは得意なようで、たとえシュラのコスモに吹き飛ばされても紫龍は直ぐに立ち上がり挑んで来た。
「お前のように黄金の力を持ちながらも自分勝手に振る舞う奴らが世界の平和を乱す!必ずや倒しておかなくてはならない!春麗や、力を持たずとも懸命に生きる人々が穏やかに暮らせる世界にしなくてはならない…!」
そう――デスマスクを倒した後で魂が実体に戻った紫龍は、老師からのテレパシーで春麗が助けられたことを知った。もう、心優しい彼女を戦いに巻き込みたくない――平和な世界の実現のために自分たち聖闘士は在るのだ。
「ハハ!結局お前が目指すのはαの虐殺か?弱者に寄り添いたいのであればそれこそデスマスクが目指した世界の方が理想的だぞ?だがそれもお前が目指す世界には足りないだろうな。世界の平和を乱す者たちの正体が誰であるのか、この無駄な十二宮の闘いを仕組んだ者たちが誰であるのか、もっと頭で考えてからものを言え!綺麗事だけでは平和の実現など不可能なのだ!」
―それはデスマスクと俺の愛も同じ―
「それでも!俺が今やるべき事はこの命を懸けてでもお前を倒すこと!」
(…目的が見えないシュラは危険だ…春麗は望まないだろうが…今、俺は全てを懸けてでもこの男を倒しておく必要がある…!)
磨羯宮まで来ると空は広い。灯りの少ない聖域では澄んだ夜空に数え切れないほどの星が瞬いて見える。普段ならそうであるが、今夜は違った。空高くまで立ち上るコスモの強い光は今、星の輝きをかき消している。
(これが紫龍の力か…)
シュラとの死闘の末、紫龍の背中に浮かび上がったドラゴン。瀕死の状態に於いてようやく発揮される本領。
「青銅にしてここまでコスモを高めるとは…クク…戦慄させられるな」
―だがそれくらいの強さは持っていてもらわねばならん、デスマスクを倒したというのならば…!―
紫龍がシュラの元へ駆け出すと直ぐに互いのコスモが激突し、辺りに散乱する瓦礫が舞い上がった。紫龍はシュラの力に弾き飛ばされない。互角である。
「やるな…だがそれでは勝てんぞ!」
「ここからだ!覚悟っ!…老師よ!この技を使うこと、お許し下さい…!」
一度後ろへ引いた紫龍は繰り出された聖剣をギリギリで避け、腕を振り上げた。しかしそれは拳を放つことなく体当たりでシュラを背後から捕える。
「なにをっ…⁈」
「 廬 山 亢 龍 覇 ! 」
紫龍は実力以上に高めたコスモを炸裂させ、シュラを抱えたままその身を天に向かって舞い上げた。その姿はまるで天に昇るドラゴンのようで。コスモが命の限り激しく燃え上がり描く光の筋は、聖域のみならず遠く離れた五老峰からも目視できる程だった。それ程までに空高く昇って行く二人の命はただ、燃え尽きるのを待つのみ。異常な力に拘束されたシュラは紫龍を引き剥がすことができずにいた。
(誰か大切な者を失ったわけでもない、世界の平和ごっこに熱くなって聖域に侵攻してきた程度の青銅ごときが何故ここまでの力を発揮する事ができる⁈この程度の小僧に俺の激情が劣るというのか…!これすらもアテナの遊びだというのか…!)
このまま身を任せていれば紫龍は死ぬだろう。黄金聖衣を纏うシュラは僅かな差で生き残れる可能性が残っていた。それでも――
(違う!これでは駄目だ、勝手に死なれては仇になんぞならん!俺の手で殺してしまわないと、俺がオレに許せない!それにっ…)
―紫龍が先に死んでしまうと、冥界でデスマスクに会ってまた何か…―
燃え上がるシュラの体の奥底で闇深いものがグワンと蠢いた。
(死んでもなお、オレのデスマスクに手を掛ける事があっては…)
―だめだ、今直ぐ死にたい…俺が死にたい…!紫龍を先に殺してしまうと…―
(あぁ!殺したい!跡形もなく刻み尽くしたい…!)
星に届きそうなほど高く昇り続けるシュラの目に、ぼんやり青く輝く海が見えた。地上の海は、こんなに広いものだったのかと。自分が生きたギリシャやピレネーの山々はあんなにも小さなものだったのかと。この広い世界の中で、数え切れない人々の中で、デスマスクに出会い愛し合えたことがいかに奇跡であったのか。
『悲劇が二人を繋ぎ続けているのだ』
満たされた日々はたくさんあった。デスマスクと気持ちが交わり、キスをして、番にもできた。なのに今湧き上がるものは後悔ばかり。βの頃も、αになっても、番になってからも!8歳という早さで出逢えたというのに無駄に過ごした数年間も!プライドなんか捨てて巨蟹宮まで行けば良かった!そこで紫龍を倒しておけば!そう思ってしまう自分も許せなくて、あぁ早く燃え尽きてしまいたい!黄金聖衣が邪魔をする、あいつを抱き締める時もそうだった。早く、デスマスクの元へ…これだけ広い世界で出会えたのだから、冥界がたとえ際限のない場所であろうと俺たちはまた逢えるはずだろう?人である限り、どれだけ抗おうと神に弄ばれるだけの存在なのだ。俺たちは必ずまた何度でも引き合わされるはずだ。絶望へ突き落とされるために。
―…デスマスクっ…!―
燃え盛る暗い影は声も上げられず、愛した番の名を唇で描いてからその身は跡形もなく、燃え尽きた。
仇は討てなかった。煩わしくなった黄金聖衣は脱いで紫龍に与えた。そいつを少しでも長く生かすために。二人の再会に邪魔が入らないように。デスマスクはオレがアテナに寝返ったと勘違いするだろうか?だが聖剣も捨てた。紫龍を地上へ叩き付けるように振り絞った最後の力と共に。大事な時に使い物にならなかったのだ。所詮アテナの聖闘士として授かった借り物の秘技、自分が持つ資格はもうない。何もできず、アテナの力試しのため十三年間も放ったらかしにされたサガの存在と聖域に縛られ、挙句には決して死なない神に攻め込まれ、そんな事も知らずに熱を上げた青銅と闘って無様に死んだのだから。神の愛など、微塵も感じない。
気付いた時、シュラはただひたすら歩いていた。そこは夕暮れ時のような空の色をしているが、決して綺麗なものではなく薄気味の悪い場所。歩いているのも自分だけではない。大勢の無気力な人の列が小高い山に向かって続いている。もちろん足を止めて蹲っている者たちも多くいた。何かを喚き、泣き、転げ回っている者たちも。
―…黄泉比良坂…―
そう直感した。デスマスクがずっと管理していた裏の居城。見ることは生涯叶わぬ無常の地。ここで、デスマスクは死んだ。
(こんなにもたくさんの亡者に囲まれていたのか…)
まだデスマスクがここにいるかもしれない、と思ったが本能が小高い山へ向かって歩き続ける。紫龍も「穴に落ちた」と言っていた。やがて上りきった頂上に広がる深淵。躊躇いなくシュラはその中へ自ら飛び込んだ。きっとほとんどの者がこの先にあるのは地獄と想像しているだろう。だが実際に何があるのかは誰も知らない。そのまま誰かの胎内に収まり、再び生を受けるだけかもしれない。手段は何でもいい。
(もう一度、デスマスクを探し出す…それだけだ…)
きっと、満たされてしまえばそう思わなくなるのだろう。シャカが言っていたのはそういう事だ。愛したい執念も失われてしまえばお互いが自由へと解放される。それは二人の縁の終結。真の死。
(お前が良くても、オレはまだ良くないからな…)
例え誰かのものになっていたとしても奪い返すだけだ…そんな姿、絶対に見たくないが自分も引く気は無い。思い出させてみせる。
闇の中を延々と落ちていたはずだったが、いつしかシュラは再び歩いていた。本当に歩いているのかは辺りが真っ暗でしばらく感覚が掴めなかったが、やがて浮かび上がってきた白く輝く地を踏み込んだ時、それは雪だと感じた。歩き続けると次第にチラチラと粉雪が舞い始める。それまで無かった落葉した木々も周りに見え始めてきた。
―…これは…あの夢?…βの頃、よく見た…―
次の瞬間、死んでから初めてシュラは足を止めた。止めたはずなのに、どこからかザクザクと雪を踏みしめる音が聞こえてくる。正面に広がる闇を見つめ続けていると、やがて金色の…
「アフロディーテ!」
「フフ…こんな所で、君に会えるとは…もう二度と無いと思っていたよ…」
頭の一部が砕け酷く血を流した姿も、これほどの美貌を持つアフロディーテであれば耽美的と思えてしまう。
「お前…死んだ、のか…?」
「それ、君が言う?」
フフ、と笑ってどこか先へ急ごうとしている。
「どこへ向かっている」
「…サガの元へ戻るよ。彼は一人、前線で戦っているんだ…」
――記憶が、混沌する。たった今まで黄金聖衣を身につけていたアフロディーテはいつの間にか見慣れない軍服を着ている。…いや、夢では見たことがあるそれ。サガなんか放っておけばいいのに、お前はなぜ…?
「誰からも放っておかれ、殺してももらえず…ハハ、最後の良心さ。君たちはこのまま進むのだろう?少しは時間を稼いでやる。この森の奥深くにはな、不思議な逸話が残っているらしいぞ。逃げ込んで行った者たちの遺体が一切見つからないと言う。…森に迎え入れられた彼らは違う世界へ導かれて行くのだとさ。それが悲劇ではなく奇跡であることを祈ってやろう」
「待ってくれ!デスマスクはっ…!」
「そこに、いるじゃないか」
そう微笑んでアフロディーテがゆっくりと指を差した先、太い木の向こうに横たわる体が見えた。
「デスっ…⁈」
駆け出そうとしてもう一度アフロディーテに振り返れば、まだすぐ側にいたはずなのにその姿はどこにも見当たらなかった。
息を呑んだシュラはデスマスクも消えてしまわないかと太い木の元まで慌てて駆け寄る。死んでいるからかフェロモンとか番の絆とかそういったものは一切感じられなかった。何となく、僅かなコスモが"アレ"はデスマスクであると囁いてくれるだけ。
「デスマスクっ…!」
木の幹に手を付いて横たわっていた体を覗き込んだ。瞬間――ゾオン!と自身が掻き消されてしまいそうな強いブレが全身を駆け巡る。
「…………、……」
その体は僅かに動いた。視線もちゃんとこちらを向いて、何か言おうと唇が震えたが声になっていなかった。
そこにデスマスクはいた。彼の弱々しく残ったコスモがそうシュラに伝えてきた。でもその姿は、顔から全身が傷塗れで血塗れで、アンダーウェアもボロボロに裂け、白い肌は赤黒く腫れ上がり、目を逸らしたくなる無惨なもので…。
戸惑ったシュラを見たデスマスクは視線を外してギュっと口を噤む。
―…情けない…死してもなお、追い掛けてまで彼を傷付けてしまうとは…―
一呼吸してからシュラはゆっくりと跪き、逸らされたデスマスクの顔に手を添えて自分の方へと向けた。
「…デスマスク、お前の体はまだ生きているよな…?死んだ俺が視えるのか?」
――触れられる…――実感はもちろん無かったがデスマスクに触れることができている。彼も再び瞼を持ち上げてシュラを見た。その瞳はかつて輝いていた星空はすっかり消え、まるで先程見た黄泉比良坂の空のように澱んで赤黒くなっていた。
「…あの紫龍が…お前をこんな酷い姿にしてしまったのか…っ⁈」
コク、と小さく頷く。
『…届かなかった。お前をずっと呼んでいたのに。一言、声を聞くことだけでもできたら…ここまではならなかったかもしれない』
喋るのを諦めたデスマスクは弱いコスモで囁くように返事をした。
『紫龍の…お前じゃないαのコスモが全身に絡んで、気持ち悪くて苦しくて、痛い。死にたくても、お前じゃないコスモに巻き付かれたまま死ぬのだけは本当に嫌で、必死に剥がそうとしたけど無理だった…っ…!』
シュラはデスマスクの頬に手を添えたまま、ぐっと顔を寄せて口付けた。デスマスクのコスモがフワッと揺れる。
「俺の感触、わかるか?」
地に横たわるデスマスクの上体を抱き上げてシュラの胸に引き寄せた。その時、首筋に噛み痕が残っているのも確認した。今抱いているのは間違いなく番となったデスマスクだ。
『…わかる…オレ、普通じゃねぇから死んだお前も視えるし感触もわかる…だから、魂だけの紫龍もオレにここまでできたんだろうな…ハァ…』
「…お前が苦しんでいたのに応えられなくてすまない」
もう一度顔を寄せてキスをする。せめて顔の血や傷くらい舐めてやりたかったがそこまでは叶わないようだ。少しでも癒しをとデスマスクの体にコスモを送る。伝わったのか、ピクン!と体が跳ねて喘ぐ声が小さく聞こえた。
「大丈夫か?合わないか?俺にはもう感覚がよくわからない」
『い…いい、続けてくれっ…。暖かくて、体が驚いただけだ…』
しばらく荒い息を繰り返していたが次第に体の強張りも解け、やっと落ち着いた表情を見せてくれた。
『…気持ちいい…汚いものが全部剥がれていくようだ。お前じゃないと俺は駄目だな…これで死ねる…』
「デス…勘付いているかもしれないが、仇は討てなかった」
『…そうか…やっぱアテナ付きは反則だったな。何もかもありえねぇ』
「それもあるが、紫龍を殺すことはできたんだ。だが、俺はそれができなかった。奴を生かしてしまった」
『…意味わかんねぇ…』
「二度とあいつにお前を会わせたくなかったんだ!死ねば奴もここへ来るのだろう?それが許せなくなって、俺の聖衣ごと地上へ叩き戻してやったんだ」
『ククッ…その発想、馬鹿すぎん?』
「聖剣ももう使えない。聖衣ごと紫龍に叩き付けて捨ててきた。だからお前を楽に殺してやることもできない…ほんと、馬鹿だな俺は…」
『…いいよ、苦しくても。殺して?こんな酷ぇ姿をお前に晒し続けるの、俺だって辛いんだわ。気持ち悪いだろ?お前が来た時、逃げ出すかもと思ったけどな…そういう奴が昔いたんだとよ。でもお前は留まってくれた…』
デスマスクの腕が脇下からシュラの背中に回る。胸に顔を寄せて小さく震えていた。
『死にたい、やっと死ねる。しかも最後にお前が来るなんてさ、それだけで最高。首絞めでもその牙で噛み殺しでも何でも耐えてやるよ』
言葉ではそう言って幸せそうに見せても、殺される恐怖から震えているのだろう。それとも本当に幸せで歓喜に震えているのだろうか?
「…なぁ…最後にこんなこと聞くのも馬鹿だと思うが…後悔、とか恨みとかあるか」
『…あるに決まってるだろ。こんな死に方させられたんだぞ?山ほどだよ。お前絶対にアテナや紫龍に寝返って無いだろうな?』
恨めしそうにチラ、っと上目にシュラを見上げるその姿があまりに愛おしく、シュラはニヤっと笑いながら強くデスマスクを抱き締めた。忘れさせないようにコスモで包み込んで、包んで、包んで、ありったけの想いを燃やして、燃えて、その想いの熱さにデスマスクが身を捩る。離さないからちゃんとオレの腕の中で死んでくれ。お前の体は何一つここに残したくない。
足先からデスマスクの体がドロドロと溶けていく。きっと熱いはずだろうに地を覆う雪が溶ける気配は無い。溶けた体液はシュラの体を滑り落ち、全て雪の下へと吸い込まれて消えていった。跡形もなく。ここにたった今までデスマスクがいたことが幻のように。
蟹座のデスマスクは、二度目の死で遂にΩの生涯を終えることができた。
辺りはすっかり静けさが戻り、とめどなく雪が降り続いている。シュラは、もしかしたらこの腕の中に魂となったデスマスクが残るかもと期待していたがすっかり消え去ってしまった。コスモも何も辿れない。
(…ここに、戻って来るだろうか…)
後ろを振り返り、待ち続けようかと思った。しかしアフロディーテが言い残した言葉が思い出される。
―この森には不思議な逸話が残っているらしい―
奥には何があるのだろう。そもそも黄泉比良坂から落ちたここはもう地獄なのか?そんなもの存在するのか?夢の狭間なのか?シュラは再び歩き出した。いるかもしれない。待っているかもしれない。この闇の先に。
いつしか足元の雪は消えていた。まだチラチラと粉雪は降ってはいる。真っ暗で何の上を歩いているのかわからない。次第に木々の影も薄れていく。どこへ連れて行かれるのだろう。
ここでまた、シュラは足を止めた。正面からコスモを感じる。それはこちらへ向かって来るのではなく、遠ざかっていくようで――そのコスモにシュラは畏れを感じた。でもどうしても確かめたくて、止めた足を奮い立たせ駆け出した。
「待ってくれ!」
やがてぼんやり見えた背中に向かって叫んだ。同じくらいの背丈をした者がその叫びに歩を止め、ゆっくりと振り返る。
――あぁ…やはり…!――
その姿を見た瞬間、シュラはまた自身が消えてしまいそうなほどに強い魂の揺れを全身に感じた。口元を血で汚し、軍服を着た黒髪の男がデスマスクを抱いている。それは、彼のαではない――
「デスマスクを連れて行かないでくれ…!そいつは俺の番なんだ!」
男から感じるコスモはシュラ自身のものであった。
(姿は違うがこの男も俺…?)
「…お前のαではない!いや…かつてはαだったのかもしれないが、Ωになって俺の番になったんだ。たった今、殺したんだ。俺が連れて行く!」
慌てたシュラを見つめる男はニヤっと笑うと、デスマスクを抱き直して口を開いた。
『クク…馬鹿を言うな、次はオレが連れて行く。オマエはこいつのαではない。ただのβだ。大人しく腹の底で見てろ。せっかく力を貸したというのに番の仇も討てぬ軟弱者め』
――β…?――ゾワンゾワンと魂が揺れる、少しでも気を緩めたら消されてしまいそうだ。
『交代だと言っている。次はオレが連れて行くのだ。αとΩになって不自由なく過ごせるはずだったというのに…オマエが邪魔をしたんだ。本当の愛だの優しさだのを求め…それだけではどうにもならないという事を思い知っただろう!無駄な苦労ばかりをかけ、あげく何度もこいつを傷付けてな!』
―まさか…αは"俺"ではないと…?―
『後を追う事は拒まない。どうあがいてもオマエはオレだ。迷いが多く煩わしいが、それくらいは受け入れてやる。だが次にこいつを愛し、愛されるのはオマエではない。それは覚悟しておけ』
ゾワンと魂が揺れる。ここで負けてしまうとデスマスクにはもう会えない――直感でわかる。
『それとも…"サガ"のように二人でしてみるか?誰しも心の中には何人もの自分が在るものだ。愛おしいこいつの中にもな。ただオマエもわかるだろう?オレは分け合うのは好きではない。迷いなど与えたくない。逃げるのも嫌いだ。"オレ"は一人でいい。それを今回再認識した。わざわざ悲劇をお膳立てする必要など無いのだ。神のせいにするのは簡単だがな、悲劇はオレの中にある』
そこまで言うと、男はデスマスクを抱いたままシュラに背を向け歩き出した。諦め切れずに追い掛けて行くが、男はゆっくり歩いているように見えるのに全く追い付けない。
『ククク…追い掛けて来い、惨めたらしく、どこまでも。愛があるのならば苦にならんだろう…お前は決して追い付けない。追い付いては、いけない…オレの後を追い続けろ…』
「待ってくれ!デスマスク!起きろ!それは"俺"じゃないんだ…っ!」
追い掛けて、追い掛けて、一つの淡いコスモの光を見失わないように追い掛け続けるシュラは必死だった。だから気付けなかった。
「シュラァァァアアーー!」
シュラの後を追う、もう一つの弱い光に。
(あいつは何を追っているんだ…!やっと見つけたというのに全然届かない!早く掴まねぇと…もうここまで来てしまった…!)
消えていった雪景色も森も、足元を見下ろすと遥か遠くにぼんやり輝いている。その更に向こうには幾筋もの爆炎が上っていた。今、深い闇の宙を駆けている。再び視線を前に戻すと突然見慣れた聖域の火時計が真横に現れて、最後の灯火が消えようとしていた。
「シュラァァァアアッ!」
――逝けば名前も消える、呼べなくなる。シュラとデスマスクが終わる…――
地上はすっかり霞んで辺りには煌めく星が瞬いている。そんな高い天(そら)まで来てしまった。あとはもう、墜ちるのみ。
「待って、待ってくれ、お前やっぱ逃げるなんて許さねぇぞぉ!またやり直しじゃねぇかぁっ…!クソバカ鈍感β野郎ぉー!」
遠い先で光に包まれていくシュラに向かって精一杯腕を伸ばした。全然、届かない。自身も伸ばした腕の先が光に包まれて消えていくのを感じる。
―シュラァァァアアーー!―
最後は叫ぶ感覚も無かった。ただ、その瞬間に火時計の灯りは消え、地上からチラチラ揺れる一筋の光がまるで二人を逃さないかのように掠めていって、ほんの一瞬、シュラの影が振り向いたような…そんな気がして。
シュラとデスマスクが共に逝く事は、叶わなかった。
ーつづくー
ーつづくー
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